ペトリコールと歌う④(最終話)
マイケル・キワヌカの『Home Again』。
瑠香は練習中だったその曲をやると言って聞かなかった。
「まだちゃんと弾けないけど」僕はチューニングしながら瑠香に言った。
「いいの。その時は、その時だから」瑠香はさっさとタンバリンを用意して待っている。
Home again
Home again
One day I know
I’ll feel home again
Born again
Born again
One day I know
I’ll feel strong again
際限なく降り続ける雨音をバックに、瑠香の声は清らかで儚げに響く。
キワヌカの声が水溜りから靴に徐々に染入る雨だとしたら、瑠香の声は天泣みたいな雨だった。清々しく晴れた空から降ってくる細かいシャワーのように、肌を優しく撫でて染入る雨だ。その優しい雨を浴びて、屋根の外の激しい夕立を、僕は束の間、忘れる。
遠くで雷の音が聞こえる。瑠香の声はいっそう透明感を増していくようだった。瑠香自身がそのまま透明になってどこかに消えてしまうんじゃないかと心配になるほどに。タンバリンの控えめな音が拍子の合間に入り、マーチンは複雑なアルペジオを鳴らして、広がる。
サクちゃんは俯いていた顔をいつの間にかあげ、天井を見つめていた。
瑠香がHome Againを歌い終わる。
「一緒に、歌おうよ」
カントリーロードとか、どう?とサクちゃんに向かって瑠香が言った。
サクちゃんが遠慮がちに主旋律を歌い、瑠香はハモりを入れ、僕はギターを鳴らす。
観客はいない。
誰のための歌でもない。
自分自身のためのものだ。
時々僕はコードを間違えたし、瑠香は音を外した。サクちゃんも歌詞を間違えて照れて笑っていたけど、その歌声は瑠香の声と似たまっすぐなものだった。
ボリュームのノブを絞るみたいに、夕立は上がっていく。雲が風に吹かれて去っていくのがわかる。空は嘘みたいに晴れ上がっていたが、其処ここにあるたくさんの水溜りが、さっきまでの夕立の激しさを物語っていた。
雨上がりの土や草が放つ、独特の香りがした。ペトリコールだ、と思った。
「これからどうするの?」
真ん中に座った瑠香は誰にともなく語りかける。
「とりあえず、花木のほうに、歩く」サクちゃんは俯きながら言った。
「帰れる?」「……わかんない」「ついて行ってあげようか」「……いい」「そっか」
瑠香がふいに立ち上がった。
「大丈夫。お母さんはきっと、サクちゃんのこと、わかってる」
「わかってる…?」
みんな最初から何でもできるわけじゃないんだよう、と軽やかに瑠香は言った。歌うように、跳ねるように。いや、跳ねるというより、そよ風に吹かれて飛ぶ綿毛のように、柔らかく、言った。
「ほら、あんたも何か言ったら」
肩を小突かれた。瑠香の顔は夕陽のせいなのか、赤く染まっている。
「お母さん、心配してると思うよ」ありきたりなことしか言えなかった。
「あと、歌、上手だから、続けたら」気の利いたことなんて言えやしない。そう言って思い出したように、ビニール袋の中のミルクティーを取り出す。
「はい、あげる。歌うときにはミルクティーがいいんだって。このお姉さんが、言ってた」
サクちゃんはちょっと困った顔をしてうなずき、それを受け取った。ミルクティーのラベルについた水滴が垂れる。
「またねぇ」瑠香が歌うようにサクちゃんの背中に声をかける。
サクちゃんは上半身をひねって振り向き、小さく手を振った。そしてまた大きなリュックを背負った背中をこちらに向ける。
サクちゃんの背中はだんだんと小さくなっていく。しかし、突然立ち止まった小さなサクちゃんはこちらに向かって何かを主張しはじめた。その指差す先を見ると――虹があった。
サクちゃんはぴょんぴょんと跳ねる。リュックも遅れて上下に揺れる。瑠香もそれをまねて跳ねる。
「虹なんて、久々に見たなあ!」瑠香の嬉しそうな顔を見て、僕は何となく満たされたように深呼吸をした。
僕らが無言でベンチに腰を下ろしてからどのくらいの時間が流れたのだろう。陽は沈みかけていて、東の空はとうに紫色に染まっている。
「お母さん、心配してると思うよ」ありきたりなことしか言えない。
「いいのよ、あんなの」彼女は拗ねたようにそっぽを向いた。
「これから、どうするの」
さっき瑠香が言った言葉を瑠香自身に向ける。彼女はそれに気づいて僕の腕をつねった。
「痛いよ」「……歌うよ」「えっ」「いいから」
家を出た少女は歌うのが上手くなるのだろうか。おかしさを堪えてマーチンの弦を弾く。
ペトリコールの匂いはもう忘れていた。
【おわり】
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