ペトリコールと歌う③
サクちゃんはどこに住んでいるの、と瑠香が聞く。
少女の名前は「サクラ」。だから、サクちゃん。いかにも瑠香らしくて、僕の口角は少しあがった。
バニラのアイスを食べ終えたサクちゃんはポツリポツリと話し出した。降りしきる雷雨と対照的な、ひっそりとした雨上がりみたいな話し方だった。
「ハナキの四丁目に、うちはあるの」
花木の四丁目と言うとここから歩いて1時間はかかる。
「ずいぶん、遠くから来たんだね」
瑠香にもそれがわかったらしい。「それで、こーんなに降られちゃったらサイアクだよね」
縦だか横だか判断できないくらい微妙な角度で、サクちゃんは小さく首を動かした。
「サクちゃん、きょうだいは?」
「……おとうと、いる。四歳下の、小学一年生」
「そっかあ。おとうとくん、お名前は?」
「…タツヤ」
「サクちゃんとタッくんかあ!いいなあ!弟!」
ワタシに弟いたら存分にこき使うけどな、と横に座る僕を見て言う。まあ今も弟がいるようなものかな、とも。言わせとけばいい。僕は何も言わずに足元を見つめる。髪から水滴が滴り落ちた。
「どうしてイエデ、しちゃったの?」
通りすがりのお姉さんたちに話してごらん、と彼女は胸を張ってサクちゃんに語りかける。
「でも…」「大丈夫!この気の利かないお兄さんはともかく、ワタシは頼りになるよ」
自分で言うのはどうなんだろうと思ったが口を挟まず、激しく揺れつづける水溜りをぼんやりと眺める。きっとサクちゃんも瑠香のペースに巻き込まれていくのだろう。同情を込めて瑠香の背中越しにサクちゃんを見やった。
「私、何をやってもダメなの。」サクちゃんは口を開いた。
サクちゃんはお母さんに多くの習い事をさせられてきたようだった。ピアノ、習字、水泳、バレエ、生け花に学習塾。どれをとっても中途半端でお母さんの期待を裏切り続けた、らしい。
「お母さんは何でもできるし、綺麗なの」サクちゃんの話し方が雨上がりのような話し方ではなくなっていることに気づいた。
「でも、私は顔もかわいくないし、要領も良くないし、友達も多くなくて」
「サクちゃんは、かわいいよ。要領はわかんないけど、私たち、友達になるし」瑠香はしっかりとサクちゃんに体を向けて言った。サクちゃんは両手のこぶしを握りしめて俯いた。
「それで、イエデ、したの?」
「……お母さんにとって私は、イラナイ子、だから」
フラッシュを焚かれたように、一瞬あたりが白い光に包まれた。その瞬間、耳をつんざくような破壊音にあたりの空気が振動する。サクちゃんと瑠香は悲鳴を上げる。この広い公園のどこかに雷が落ちたのかもしれなかった。
サクちゃんは泣き出した。声も立てずに、泣き出した。「しくしく」という形容がぴったりな泣き方だった。それはカタカナの「シクシク」ではない、もっと別の、谷底を人知れず流れる緩やかな川みたいな涙だ、と思った。雨は強弱をつけて地面を叩いている。
瑠香はサッと立ち上がり、サクちゃんの横に立て掛けてあったマーチンのギグバッグを手に取って、僕に押しつけた。
「歌うよ」
はっきりと、そう言った。
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