ペトリコールと歌う①

季節感ちぐはぐですが、夏の物語を公開しときます。少し前に書いたやつを改変し、いくつかに分けてお送りします。

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公園でアコースティックライブをやろうと言い出したのは瑠香だった。天気予報のキャスターが、午後に激しい雷雨に見舞われる可能性があると言っていたことを思い出し、僕は瑠香にそれを伝えた。「ゲリラ豪雨に降られる可能性、あるってさ」
「可能性、でしょ」腰に手を当てて、眉間にしわを寄せて言う。今日はどうしても歌わなきゃいけない気がしてるの、と彼女は大声で主張した。瑠香のペースに丸め込まれてしまうのはいつもの事だったが、アコースティックギターが濡れてしまったらと考えると外出する気にもならない。

2年のローンを組んで購入したマーチンのアコギはシンプルな見た目とは裏腹に奥深い音を奏でる。瑠香からすればモーリスだろうがヤイリだろうが、その差は些細なものかもしれないが、僕にとってこのマーチンは特別だった。
「来週でもいいじゃん」濡れたくないよ、と一応の抵抗を試みる。しかし、瑠香は早々と出かける支度を始めていた。はいはい仰せのままに、と小声でつぶやくと瑠香は勝気で大きな目を細めて睨みつけてきた。僕は観念したように両手を上げて立ち上がった。

8月の刺すような日差しの中、自転車を走らせる。
「けいすけ!遅いっ」と瑠香に背中を叩かれるたびに汗がじわりと全身に滲む。そもそも2人乗りの時点で警察に注意されてもおかしくないのだ。焦りと不安が僕のTシャツを余計に濡らす。僕の代わりにアコギのギグバッグを背負った瑠香はスピードが落ちるたびに腕を軽くつねってきた。雷雨になるならいっそさっさとなってほしい、と願ったが、空にはそれらしい雲は見えなかった。天気予報のキャスター、嘘ついたんじゃないか。瑠香につねられるたびに、本気で疑った。

街で一番大きな運動公園に到着し、自転車に鍵をかける。公園に着くや否や、アコギを背負ったまま瑠香は走り出していった。いつもの大きな木の下ででたらめにアコギを鳴らすのだろう。むやみやたらに強く弦を弾くものだから、いつ弦が切れてしまうか、心配になってしまう。

ようやく追いついて瑠香を見つけた。木の下で胡坐をかいて、やはりつぶれた和音を鳴らしていた。しばらくその様子を後ろから眺めていると、瑠香は押さえられるコードだけで無理やり弾き語りはじめた。
THE BEATLESのHEY JUDEだ。3フレットにカポタストをつけて歌う。綺麗な声だ。瑠香の歌を初めて聞いた時のことをふと、思い出す。

大学に入学して間もないころ、キャンパスの片隅で高らかに歌う瑠香に出会った。大声で、しかもアカペラで歌う瑠香の姿を遠目から見たときは頭のおかしいやつがいるなと思った程度だった。しかし、近づいていくにつれてその印象は、壁にペンキを塗るようにするすると変わっていった。
「白」だ。彼女の歌声は一言でいえば「白」だった。何にも染まっていないし、聴いている者の心まで「白」に染めてしまう。繊細で、それでいて強さもあった。するりと心に溶け込む馴染みの良さと、一度聴いたら思い出さずにはいられないインパクトを併せ持っていた。率直に、本能に従うように、その声に惹かれた。惚れた、と言ってもいい。「その声が欲しい」という感情を持ったのは初めての事だった。
「……なに、じろじろと」見てんじゃないよ、と言って彼女はその時、歌うのをやめた。見てたんじゃないよ、聴いていたんだ、と言おうとしてすぐに口をつぐんだ。彼女がファイティングポーズをとったからだ。
「なに、喧嘩売ってんの?」さっきの歌声はどこに行ってしまったんだろう。塗りたて注意の白い壁はあっという間に無造作な手形で汚される。

そんなことを思い出しながら華奢な背中を眺めていたら、木の下で機嫌よく歌っていた彼女は座ったまま振り返った。

「遅い」「ごめんて」「やだ。アイス」「暑いもんね」「アイス」「まあ帰ったらな」「あ、い、す」

何のために公園に来たのだろう。僕はまた自転車にまたがり、コンビニを目指している。飛ばせば5分の距離だ。瑠香を待たせるとまた蹴りを食らいかねない。
コンビニに入り、迷わずバニラのソフトクリームを手に取る。瑠香はこれが好きなのだ。ついでに冷たいミルクティー、ついでに虫嫌いな瑠香のために虫よけスプレー、ついでに、スナック菓子、ついでに、ついでに……。文句を言わせないよう、万全を期そうと買い物を済ます。
外に出ると、先ほどの強い日差しは黒く重い雲に覆われ、微かに雨の匂いがした。

「雨の匂いって、ペトリコールっていうんだって」
瑠香の声が頭によぎる。
ペトリコール。これがきっとそうだ。

そんなんだけど、イノウエは。

つれづれなるままに!ひぐらし!

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