通りすがりの悪意
「通りすがりの悪意」というものがある。
何気ない瞬間に唐突にすれ違う無意識の毒心だ。
道端に吐き捨てられたガム、電車で足を開いて座るおじさん、横に広がって歩く女子高生。
「通りすがりの悪意」はいたるところに転がっている。
…………
――揺れる。満員の車内の息苦しさには乗客の殺気めいたものも関係しているに違いない。
電車はレールを滑りながら小刻みに振動しているが、揺れているのはそれだけではなかった。
ぐわんぐわんと上半身を振り回す隣の男が、大きく旋回しながら肩をぶつけてくる。
夜、下りの小田急線の車内では疲れたサラリーマンが大勢、揺れている。
その男は相当寝不足なのか、上半身の体重を二本の腕とつり革に任せて体をくの字に曲げて目をつむっている。
眠気の波に任せて舟を漕ぐようにぐわんぐわん。その度に肩がぶつかる。
コマをぶつけ合う昔流行ったアニメを思い出して負けてたまるかと僕は踏ん張る。
(不快感?不快感なら俺の隣で寝てるよ?)
心の中で自嘲して誰かに同情を求めるけどもちろん誰も聞いてなどいない。
舟を漕ぐサラリーマンの目の前では、三十路のOLが眉間にしわを寄せて目をつむっている。当然席を譲る気はないのだろう。周りの乗客も迷惑そうな顔を向けて舌打ちをこらえるだけだ。そもそも満員の殺気立った車内にこの男を許すキャパシティなんて存在しない。
「次はー新百合ヶ丘、新百合ヶ丘です。お出口は、左側です」
呑気な車内アナウンスが流れると、ふいに隣の男が背筋を伸ばした。
そうか、ベイブレードがやっと終わるのだな、と思ったその刹那、人の波に飲まれる。「通りすがりの悪意」どころの騒ぎではない。満員電車は「悪意の洪水」だ。
最寄り駅にはまだ着かない。せめて自分が「悪意」の一滴にならないよう、電車内の隅っこで縮こまっている。ドアが閉まる。
――揺れる。
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