『女生徒』

高校時代、私の机の上には常時数冊の小説が積まれていた。暇さえあれば図書室へ通い、3冊〜5冊を借りてそれらを並行して読むのだ。

なんとなく近代文学を読むのが怖くて、現代のエンタメ小説ばかりを読んでいた。しかし、そんな中でも一冊だけ、読んでみた近代の小説があった。

太宰治の『走れメロス』だ。高校1年生の頃だったと思う。
これはもちろん、表題作の『走れメロス』を含む数編を収録した短編集のことである。

その中の一編、『女生徒』。これを最初に読んだ時はあまり響かず、最後の印象的な文章だけが頭に残ったものだった。

ところが、だ。あれから約5年。大きく捉え方が変わっていたことに気づく。

2日前、暇で暇でどうしようもなかった時に青空文庫を漁っていて出てきたのがこの『女生徒』だった。

今更、なのだ。日本中の多くの人間が受けてきたであろうこの"衝撃"を、今更ながらに受けることとなった。

私は、おっかなびっくりになってしまった。洋服いちまい作るのにも、人々の思惑を考えるようになってしまった。自分の個性みたいなものを、本当は、こっそり愛しているのだけれども、愛して行きたいとは思うのだけど、それをはっきり自分のものとして体現するのは、おっかないのだ。人々が、よいと思う娘になろうといつも思う。たくさんの人たちが集まったとき、どんなに自分は卑屈になることだろう。口に出したくも無いことを、気持と全然はなれたことを、嘘ついてペチャペチャやっている。そのほうが得だ、得だと思うからなのだ。いやなことだと思う。早く道徳が一変するときが来ればよいと思う。そうすると、こんな卑屈さも、また自分のためでなく、人の思惑のために毎日をポタポタ生活することも無くなるだろう。

どうしようもない卑屈さが私の頬を舐めていく。べっとりと残った唾の跡を拭うこともせず、ぼんやり突っ立っているしかない。
太宰治は、卑屈さを持った人間の共感を引き出しては放置していく。太宰治というのはもう"人"じゃなく、"現象"なんだろう。

とまあ、語り尽くされ共感され尽くしてるであろう太宰治論を私が再び撫で回してもしょうがない。この辺にしておく。ちなみにサムネはなぜか、作中に登場する『濹東綺譚』の「濹」。なぜそこを切り取った。


この『女生徒』という作品をまだ読んだことがないという人は読んでみたらいいと思う。短いし、すぐ読めるよ。
これに共感できればナイーブでセンシティブな人。
できなければパリピな人、だと思う。




そんなんだけど、イノウエは。

つれづれなるままに!ひぐらし!

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