「持つものの憂鬱は…」
前にさ、
「持つものの憂鬱は持たざる者への嫌味」って書いたけどさ、正しいかもしれないけど正しくないかもね。
俯瞰してみればきっと正しいと思う。
「憂鬱」がもし絶対的なものであれば、持てる者はそれを持てるだけの力があるってことであり、持たざる者は持つ力さえないということだから。
例えるなら、イケメンが高嶺の花子さんと「付き合いたい」という憂鬱は、ブサイクが高嶺の花子さんとはそもそも「付き合えない」と諦め、憂鬱すらしないということに言い換えられるかもしれない。
でも実際は、「憂鬱」というのは個々人が置かれた環境によって異なる相対的なものだし、「高嶺の花子さん」だって人によって対象が違うかもしれない。
つまり、持つものが憂いを帯びていたとしても、そんなことはそもそも持たざる者に関係がないということだ。比べることではないのだ。
しかし、隣の芝生はいつだって青い。草の種類も広さも、育った土さえも違うのに、生え揃った芝生の色味だけを見て判断してしまう。羨ましがってしまう。愚かなことだ。
冒頭の発言は、婚活に励む「加奈」という人物の卑屈さから漏れた言葉(『適齢期③』を参照)であるが、僕自身が確かに感じたことのある気持ちである。
ここで訂正しておきたい。というよりも加筆しておきたい。
「持たざる者の卑屈さが、持つものを幸せに見せる」
「持たざる者の憂鬱は、持つものへの劣等感である」
以上。
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