適齢期③
の続き。
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「もうほんと、嫌になっちゃう」
フォークを逆手にもってパンケーキに突き刺す。
依子はかれこれ1時間、夫への愚痴を並べ立てている。
帰りの遅い旦那さんが子育てに協力する姿勢を見せないことに腹を立てているらしい。
「この前だってさ、ケンのお受験どうするかを相談しようとしたのにさ、『疲れてるからまた今度な』だって!今度なんてないくせに!隣のタカハシさんのご主人なんてね…」
突き刺せるパンケーキがなくなってしまい手持無沙汰になった依子は長い髪の、毛先をいじり始める。加奈は気づかれないくらいゆっくり、ため息をついた。
依子は加奈の大学時代の友人だ。
5年前、友人グループの中では一番乗りに結婚し、今では3歳の息子を持つ母親である。
「あ、そういえばお誕生日おめでとう!加奈、先週誕生日だよね?」
依子は悪気なくこういうことを平気で言う。歳をとることにめでたさを感じない加奈は平べったい笑顔を浮かべる。大学からの付き合いでわかっているとは言え、これは中々堪えた。
「ありがと。あ、ケンくんの誕生日と近いのね」
こういうときは依子が食いつきそうな方向に話を変えるのが得策だ。案の定、さっきも聞いたケンくんの誕生日会の様子を事細かく教えてくれる。さっきよりも少し誇張して喋る依子の姿が視界の真ん中で黒く溶けて消える。
30歳。
20代という女性にとって最も輝かしいと言われる時代を消費しきった、いわばゴール地点だ。
29歳から30歳になるにあたって何が変わったわけでもない。化粧のノリも依然と変わらずだし、洋服の趣味がオバサン化したわけでもない。"月のもの"も相変わらずだ。
それでも自分の中の何かが失われてしまったのは確かだった。10代から20代になったあの時の寂しさとは、比較にならない喪失感がそこにはある。
先週の誕生日、潮田は何もプレゼントをくれなかった。
当然だ。加奈はその日一日を仕事のみに費やしていたし、そもそも潮田に自分の誕生日を教えてすらいなかった。30歳になったからって潮田が加奈を敬遠することはないだろうが、若干の負い目を悟られたくはない。
加奈にとってその誕生日は、このまま結婚できないかもしれないという恐怖が一層強まるだけの日でしかなかった。一般的な幸せとされる「普通の家庭」さえ加奈にとっては夢のまた夢に感じられたのだ。
依子は子育てに一喜一憂することができる。
加奈はそれすらできない。
依子は夫に対して怒ることができる。
加奈はそれすら、できない。
気づけば依子は幼稚園のママ友関係についての愚痴を始めていた。
やめて。自分の今持っている幸せに気づいて。
加奈は心の中でそう願いながら張り付けた笑顔の仮面の口角を上げる。
持つ者の憂鬱は持たざる者にとって嫌味でしかないことに気づいてほしい。
でも、それに気づいてから、申し訳なさそうに憐れむような視線を向けないでほしい。そっちの方がよっぽど惨めだ。そういった意味では無神経な依子の尖った口がありがたかった。
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