生活①

「うん、もういいよ」
目の前のひげをたくわえた監督は朝香を見てそう言った。監督の隣で偉そうに顎を撫でるディレクターも何やらメモに走り書きして頷き、疲れ顔をしかめる。開始20秒。朝香はまだセリフを二言、発しただけだった。
えっでも、と言葉を挟もうとするや否や、監督は大きな声を出してそれを制した。
「はい、じゃー、次の人どうぞー」
朝香は唇を噛みしめ、彼らを睨みつけるほかなかった。また、ダメそうだな、オーディションなんて言うのは大抵コネだ、自分のせいじゃない、そう言い聞かせて朝香は部屋を出る。

今にも雨が降り出しそうな鼠色の重たい雲は薄汚れた雑巾みたいだ。さっきまで暖房の温さに当てられ、しかも緊張によって体の内側も燃えるように熱かった朝香の身体は冬の近づく冷気に晒され目が覚めるようだった。 またしても手ごたえのなかった先程のオーディションを思い出してぎゅっと身を縮ませる。この後は居酒屋のアルバイトに行かなければならない。何とかして稼がないと生きていけないのだ。好きなことをして生活できるのはほんの一握りの恵まれた才能を持つ者と、相当運に愛されている者だけだと朝香は確信しつつあった。一粒の雨が落ちてきて朝香の頭皮に染みる。じわっと広がる冷たさに閉口した。

「朝香ちゃん、生ひとつっ」
赤ら顔の中年男性の注文はすぐに宴会の笑い声にかき消された。それでも朝香は笑みを絶やさず返事をしていく。これもお芝居の練習なのだと自分に言い聞かせながら接客をする。わたしは主人公。お店の看板娘。運命の出会いをすることになる少女…。
「朝香ちゃーん、こっちこっちぃ」
しっかり口角上げて。
「朝香ちゃん、彼氏いるの?」
舌打ち代わりの愛想笑いを。
「朝香ちゃん、美人だねえ」
殺意の代わりにビールを注いで。
「朝香ちゃん、俺と付き合う?」「ばか、お前既婚だろ」「いいんだよ」「よくねーよ」……ああ、こんなとこ、早く辞めたい。


ギターを構える。大学生の時に買ったGibsonのレスポールだ。チェリーサンバーストのボディは確かな重みを太ももに伝えてくる。マンションの外では雨が降っていた。深夜のニュースでは明日はみぞれ交じりの初雪が降ると、はりついた笑顔でキャスターが言う。

君に言いたい事はあるか
そしてその根拠とは何だ

涙流してりゃ悲しいか

心なんて一生不安さ       

コードを鳴らして朝香は歌う。小さな声で歌う。頭の中ではレスポールの音が歪む。硬さを残したオーバードライブは心地よく朝香の生活を撫でていく。
心なんて一生不安、か。朝香はレスポールを立てかけ、ノートパソコンを開く。


…………………………………
卒論課題の一部を改変してお送りします。
コラそこ、ネタ切れとか言わないの。

そんなんだけど、イノウエは。

つれづれなるままに!ひぐらし!

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