寝過ごし
男は、起きていた。左側の壁に寄りかかって目を瞑っているから、側から見たら眠っているように見えるはずだ。元より男のことを気にしている乗客など皆無だろうが。
男は、最寄駅を"起き過ごす"。
しっかりと男の耳には最寄駅到着のアナウンスが届いている。しかし彼は目を開けない。立ち上がりもしない。
昼中の車内には母娘が1組と新聞を広げた職業不詳の初老の爺がいるだけだ。単調にレールを滑る音と時折、踏切の音が響く。
快速急行だったか。男はそこで気づく。どおりで駅と駅の間が長いわけだ。男の最寄駅は快速急行で降り損ねると5駅先まで止まらない。往復10駅分の「タイムロス」になる。男にはそれが愉快だった。理由などない。ただ、決められた時間、きっちりと埋まったスケジュールに対して男は抗いたかったのかもしれない。このまま、どこまでもいきたかった。自分の知らない場所へ、到着することなく、永遠に、どこまでも。何をするでもない。楽しくも、悲しくも、悔しくも、ない。そんな時間を過ごしたくて"起き過ごして"いるのかもしれない。
「お疲れ様でした。次は、終点…」
唐突にアナウンスが鳴り響く。男は焦る。15駅分、文字通り"寝過ごした"からだ。陽はいつのまにかオレンジ色の光をまとっていた。薄いカーテンで濾過された陽光は柔らかく車内を照らす。
ホームに降り立った男は、焦りと無念の気持ちを引きずりながら、それでも唇には微笑をたたえて、階段を一段飛ばしに駆け上がっていった。
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