彼女と朝

「寝たら明日が来ちゃうから、寝ないんだ」
彼女はそう言ってコーヒーを入れる。
「一生このまま時が止まっちゃえばいいのに。…なーんて。」
彼女はそう言ってソファに腰掛けた。彼女の目の前ではブラックコーヒーが湯気を立てる。ぼくはそれをただ、座って眺めるだけだ。
「答えなんて、いらないわよね。芸術に一つの答えがないように」ぼくは何も言わない。でも答えなんていらないとぼくも思った。
「南極では息が白くならないそうよ。不思議よね」
彼女は湯気を優しく吹き飛ばしてからコーヒーに口をつける。
「この湯気だって」彼女はコーヒーをこくんと一口飲み込んで続ける。
「舞ってる小さなチリが結晶化したモノなのよ」
へぇ、そこでぼくは初めて声を上げる。彼女は少し肩をびくりとさせて顔を上げる。怯えて見開かれた目の下にはクマがすっかり住みついていた。
ぼくは咳払いをして立ち上がる。彼女は空中の一点を見つめながら呟いた。
「でも、答えが欲しいの。たった一つの答えが。その方が楽だわ」
肩をすくめてぼくは彼女の座るソファの後ろに立つ。彼女は続けた。
「感情なんてものがあるから、苦しいのよ。こんなものに振り回されて、ほんと、嫌になっちゃう」
ぼくはソファの背中側にもたれて膝を抱えて座った。彼女のため息が溶けすぎた部屋には、まだぼくのいた頃の名残が確かにあった。歯ブラシ、コップ、箸。タオルにTシャツ。ぼくの生きた痕だ。でもそんなもの、もう捨ててくれて構わないんだ。本当に。

ぼくのことなんて忘れてくれたっていいのに。

「忘れられるわけないじゃない」

君は笑った顔が一番なんだけど。

「笑えるわけないじゃない」

うまくいかないね。

「…なんで、なの」

いつ死ぬかわかんないもんだね。

「…ほんと」

生まれ変わったら会えるかな。それとも化けてでようかな。

「…ばか」

朝陽が溶けだし、気づけば夜は姿を変える。
コーヒーはしんと冷めきっていて、空気中のチリなんて、もう見せてはくれなかった。

そんなんだけど、イノウエは。

つれづれなるままに!ひぐらし!

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