不安になるほど大きな月で【イノウエ旅行記三日目①】

目を瞑る。耳には夏合宿ライブの録音が流れ込んでくる。最後のバンドが最後の曲を演奏しようとしていた。瞼の裏にはその時の光景が浮かんでいる。二週間前に終わったその夏合宿が恋しくて、俺は二段ベッドの一階で、何度も何度もそれを聞きかえす。

今晩は、そんな「余裕」がある。数億年ぶりにベッドに横たわっている気がするほどだ。
対して、昨晩はそれなりの地獄だった。


長万部から静狩までの距離は約10キロで、海岸線のほぼ一本道を歩けば2時間ほどで着く。昨晩はその歩行を決行していた。午前1時頃のことだ。文字にしてしまえば大したことがないように見えるが、実際に歩くと感覚が違う。

時折横を轟音で追い抜いていく大型トラックを除けば、景色は単調。歩いても、歩いても同じ景色。人の姿はない。不安になるほど大きな月が背後から道を照らす。しかしそれでも、暗い。
午前3時半。駅周辺にようやく辿り着いた。静狩駅の待合室で一眠りしようと、駅舎に近づく。
おかしい。お化け屋敷など一笑に伏せるほどの不気味さが建物を覆っている。
木製の戸を横に開く。ギギギッと大きな音を立てて待ち構えていたのは、寂れた真っ暗な待合室だった。
電気のスイッチを探すために、iPhoneに光を放たせる。おかしい。ない。蛍光灯が二つ、天井には貼りついているのに、スイッチが見つからない。
物音がした、気がした。振り向く。何もない。おかしい。絶対に何かがおかしい。こんなところで朝を待つのはごめんだ。そう思った時に何か、何かがずれる音がした。何の音だったのだろう。俺自身の「恐怖」のスイッチが押された音だったのかもしれない。俺は一目散に駆け出す。

とはいえ、寝る場所はない。しかし脚には着実な疲労が溜まっている。
仕方ないか、と言ってリュックを下ろす。ひとり旅は独り言が増えるようだ。俺は何かブツブツ言いながら車道の端っこで丸まって横になる。明るい月が真上から照らしてくるのがわかる。アスファルトの冷たさが脚に伝わるが、意識は一瞬で遠のいていく。

1時間ほどすると空は明るくなっていた。ふと目を覚ます。太陽の力を借りれば待合室など怖くないだろうと例の待合室に向かう。
ところが、だ。なぜだろう、電気がついている。蛍光灯を誰かがいじったのだ。寂れた無人駅の待合室の、蛍光灯を。一体誰が?どのタイミングで?
俺の中ではそんな疑問より眠気が勝った。待合室のベンチに横たわる。恐怖などとっくに死んでいた。
あんな明るかった月は小さくなった石鹸みたいに、朝焼けに溶けていく。

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