Chapter:B 前沢賢治の話

宮沢賢治が嫌いだった。俺はずっとあいつと比較され生きてきた。勝てるはずもない。相手は日本文学史に名を刻んだ偉人だ。一方の俺は雨ニモ風ニモ負ケル軟弱者なのだ。

父が宮沢賢治に心酔していた。息子ができたら「賢治」と名付けるのだ、と意気込んでいたことは幼い頃から聞かされてきた。前沢という苗字もあって俺の人生は宮沢賢治と共にあったと言っていい。
父は俺が幼い頃から飽きるほど宮沢賢治の一節を暗唱させた。そして毎度のごとく言う。
「お前もケンジさんのように立派になるんだぞ」
友人も事あるごとに宮沢賢治の一節を引用しからかう。俺が少し弱音を吐けばアメニモマケズ、と呪文のように繰り返すし、殊勝なことを言ってもサウイウモノニワタシハナリタイと笑って返される。さらに一時期のあだ名は、カムパネルラを略して「カム」。嬉しくもなんともない。
それでも、そのからかいすら自分自身の強みに変えていく術を学生時代で俺は何とか身につけた。宮沢賢治をどうにか味方につけようと思ったのだ。
社会に出た俺はあえて宮沢賢治を引き合いにだすようになっていた。とかく上の世代にウケがいい。カラオケで歌謡曲を入れるような感覚で俺はその名を利用した。

しかし、それには限界があった。
俺は知らず知らずのうちに自分自身に擦り傷を蓄積していったのかもしれなかった。宮沢賢治という忌むべき相手と自分を比較し続け、薄っすらと血を流し続けていたのだろう。

そいつは俺にとって苦手な人間だった。しかし会社としては大口の取引先だ。丁重に接せねばならない相手である。名前は川田といった。川田は俺のことを「ミヤザワくん」と呼んだ。それだけなら別に我慢できないことではない。ある程度は慣れている。

接待で飲んでいた時のことだ。川田は目の前の俺をニヤニヤと見つめて「ミヤザワくん」と言った。
「ミヤザワくん、シスコンでしょ」
は?と言いそうになったのを堪えた。代わりに咄嗟に咳払いをする。それを肯定の証と捉えた川田はしてやったりという顔をしてさらに相好を崩した。
「やっぱり。宮沢賢治とおんなじなんだねぇ。もう気持ち悪いくらいのシスコンっぽいよねミヤザワくんも」
「……マエザワ、です」俺はギリギリのところで怒りをこらえながら訂正した。そもそも俺には姉も妹もいない。
「えーもういいでしょ、ミヤザワくんはミヤザワくんじゃん。白状しちゃいなよぉ」川田はジョッキを握って一息に呷る。顔が赤い。そして言った。
「ほら、ミヤザワくん。正直に言っちゃいなよ。『わたしはどうしようもないドシスコンでイモウトちゃんが大好きです』って」
何かがプツリと切れた音がした。川田が言い終わるや否や、手元のジョッキを丸ごと川田に投げつけていた。川田はジョッキがぶつかった衝撃で悲鳴をあげながら仰け反る。蓄積だった。ここまで生きてきて耐え忍んできた我慢が、ちょっとしたモラハラで限界を迎えた。俺は宮沢賢治のように我慢強くも、立派でもなかったのだ。

上司には自主退職を促された。大口の取引先を失った会社は責任を誰かに取らせようと動き始めていた。当然、一番責任があるのは事件の当事者であり、取引先担当者の俺だ。

一緒に住んでいた彼女に会社をクビになったと告げる勇気などなかった。退職後も、仕方がないからいつものように会社に行くふりを続けた。
しかし、貯金には限界がある。この事実が知られようが知られまいが彼女とは別れることになるだろう。仕事を失った自分に将来性などない。

宮沢賢治なら、どうするだろう。たくさんの物語を読まされはしたが、彼自身の人生を俺はほとんど知らなかった。いや、知りたくなかったと言った方が正しい。
でも俺には彼の人生を知る意味があるんじゃないか。会社に行ったふりをしてパチンコを打ちながら思う。スーツにはタバコの臭いが染み着き、ぼうっと耳鳴りのする頭で俺は決めた。
彼の故郷に行ってみよう。時間なら腐る程あるのだ。


平日の真昼、スーツのままJR東北本線に乗り込む。乗客はまばらで想像通りののどかさだ。
俺は缶ビールのプルタブを引っ張る。プシュッと小気味良い音を立てて白い冷気があがる。スーツを着て昼間に電車でビールを飲むなど、今までならありえないことだ。嬉しくもあるが、悲しくもあった。何かを得るには何かを失わなければならないのだ。
俺の意識はだんだんと遠のいていく。電車の揺れはゆりかごのようだった。

気がつくと、乗客は増えていた。立っている人もいるほどだ。俺は大きく広げた脚を閉じ、神妙な顔をする。福島駅を通過したらしかった。目の前には髪の多い大学生らしき青年が座っていて俺を睨んでいた。迷惑な酔っ払いを煙たがる視線だ。間違ってはいない。申し訳程度に申し訳ない顔をする。

青年が降りる準備をする。仙台駅が近づいていた。青年は大切そうに青春18きっぷを取り出す。失くさまいという強い意思を感じる。

その時、俺は宮沢賢治の言葉をふわっと思い出した。

僕たちと一緒に行こう。
僕たちはどこまでだって行ける、切符を持っているんだ
『銀河鉄道の夜』。ジョバンニの言葉だ。
そこで俺は気づいた。俺は自分自身を今まで封じてきたのだ。事あるごとに宮沢賢治の言葉を思い出す自分自身を奥に奥にと押し込んでいた。頭に浮かんだ宮沢賢治の言葉を半ば無意識のうちに打ち消していたのだ。
でも、大丈夫。今なら素直に思い出せる。

もうけっしてさびしくはない
なんべんさびしくないと
云ったとこで
またさびしくなるのはきまっている
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとはとうめいな軌道をすすむ



そんなんだけど、イノウエは。

つれづれなるままに!ひぐらし!

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