誰にでも優しいきみは。
「こちら側のどこからでも切れます」
カップ麺のかやくの袋はそう主張した。
ところが左上をぐいっと捻っても、その下を捻っても、ビニールがただただ伸びるだけだ。どこを捻っても裂けてはくれない。面倒になって僕はハサミを取り出す。
そこには、バカみたいに口を開けて待っている乾麺と、どこからでも切れるはずなのにどこからも切れないかやく袋と、ハサミを持った誰にでも優しい僕だけがいた。
「誰にでも優しいのは誰にも優しくないのと同じ」
腐りかけの文句だ。ヒートアイランドに腐らされた生肉のように陳腐だ。
ん?ヒートアイランドに腐らされた生肉は陳腐なのか?そもそもそんなもの見たことないんだけどどっかに落ちてるのか?
無論、落ちてないです。例えが下手なだけ。
結局、誰かに対して真に優しくなるためには、他の誰かへは無関心にならなきゃいけないのだ、と思う。
袋に切り込み口があった方が切りやすい。他の辺には関心を持たず、ただそこだけを捻ればいい。そんな様にだ。
誰に対して優しくなるか。
誰に対して無関心になるか。
真の優しさはもしかしたらそういうところから始まるのかもしれない。
でも、僕はそうはなれない。
煮え切らない、ちぎれないかやく袋の様に、ただただ捻られて捻られて伸びていくだけだ。
正解なんてない。正論がいつも正しいわけじゃない様に、「真の優しさ」が「真」かどうかなんて誰も決められはしない。
3分待つ間に、そんなことを考える。
そうして立ち尽くしているとタイマーが鳴った。
甲高いアラームを止め蓋を開くと、あけていない調味油の袋が湯の中に浸っていた。すでに油っぽくなったその袋をつまみ出すと、そいつはまた主張した。
「こちら側のどこからでも切れます」
誰にでも優しいのは、きっと、誰にも優しくないのだ。
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