スーツぶかぶかニキ
あいつは唐突に俺の前に現れる。
一週間前、中央線快速東京行きにそいつは現れた。
新宿から乗り込んだ俺は座れる席がないことに少しがっかりして吊革につかまり、ぼうっと外を眺めていた。景色は右に向かって流れていく。よく晴れた、暑い春の終わりだった。
ふと車内を見渡すとヤツはいた。
明らかにオーバーサイズのスーツを見事に着こなし、古びたカバンを右手に突っ立っている。目は虚ろ、かっこよくもブサイクでもない普通の顔立ち。髪には寝癖。背は低い。少なくとも俺よりは。
ご存知とは思うがスーツはジャストサイズを着るのが通常だ。手首あたりでワイシャツの白がチラリと見えるのが基本形らしい。
しかしそいつは一味違う。
手のひらまですっぽり覆うほど長いジャケットの袖、お尻を隠すほど長い丈。よく見るとズボンの裾も余りに余ってぶかぶかである。
多分、同世代だ。そしてこの時間にこうして同じ車内にいるということは恐らく俺と同じ就活生だろうか。いや、この感じはきっとそうだ。
スーツぶかぶかニキ、通称「ぶかニキ」は停車したその駅で降りた。俺はますます興味がそそられる。俺もこの駅を降りるからだ。
ついていく。いや、正確にはついて行っているわけではない。たまたまいく方向が全く一緒なだけだ。
ぶかニキはそのオーバーサイズなスーツからは想像つかぬほど歩くのが速い。油断すると一瞬で置いていかれそうだ。ぶかニキを見失わないよう歩調をキープする。
曲がった。ぶかニキも曲がるのだ。当たり前か。とにかくぶかニキは曲がって一瞬姿をくらます。そこはちょうど俺も曲がろうとしていた道だった。
まさか、同じ会社の面接…?だとしたら愉快だ。スーツぶかぶかニキに負けるような俺ではない。
そこを曲がると目的の社屋が見えてくる。そしてぶかニキはその手前のコンビニに入っていく。なるほどまだ予定時間の20分前、微妙に時間はあるか。とはいえ、そこまで尾行するのも忍びなく、そもそもトイレに行きたい自分の腸に気づいて俺はその社屋を目指すことにした。
結局同じ面接会場にぶかニキがいたのかは定かではない。
しかし、だ。
あいつはまた、俺の目の前に現れた。今度は小田急線下り快速急行藤沢行き。
相変わらずジャケットの袖は萌え袖のように手のひらを覆っていたし、裾もぶかぶかだ。
虚ろな目の奥に潜むそのスーツ事情を俺は知る由もない。が、彼がぶかぶかなスーツを脱げるその日を祈った。
そして俺は自分自身にまとわりつくこのジャストサイズの鎧を呪う。
早く終わって楽しいことがしたいゾ。
そう願う。
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