カラス
ギャァ。僕はこの声が大嫌いだ。
不気味に響くカラスの「叫び」が崖の上の団地の方角から聞こえてくる。
鳴き声ではない。これは「叫び声」に近い。
喜びによる嬌声なのか憎しみのこもった絶叫なのかは定かではないが、その声々は僕たち人間を不安にさせる。
時刻は深夜23時。いつもなら静まり返っているはずの住宅街はひっきりなしのカラスの叫びに襲われていた。
「カラスがうるさいのは地震の前兆」というまことしやかに囁かれる噂も僕の浮つかなさに拍車をかける。音楽をかけても、本を読んでも、映画を見ても、耳を塞いでも、ギャァという人の叫びに似たそれは聞こえてくる。
それは恐らく夜通し響き渡っていたのだと思う。
翌朝(と言っても昼に近かった)、目覚めた僕は階下に降りてある異変に気づいた。
いつもならダラダラしてる三びきの猫達がワタワタしているのだ。それだけなら良かった。野良猫がふらりと庭に来た時なども彼女らはパタパタ走り回っているからだ。
異変はそれだけではなかった。昨夜聞こえたカラスの叫び声がより近くにーいや、家の目の前から聞こえるのだ。
恐る恐る庭を覗くと、あいつはすまし顔で居座っていた。
手前にいる末っ子マルクルは滅多に怒ったりしない。そんな彼が明らかに怒っている。フゥーッて言ってる。でも正直全く迫力がない。
それより恐怖なのは窓ガラスの向こう、ハシボソガラスだ。人間を全く怖がらない。それが一番怖い。初めてこんな間近で眺めたのだが眼がマジだ。瞬きのたびに目が合うものの何がマジなのか、僕にはよくわからなかったけれど。
向かいの家の電線では更に2羽がギャァギャァと騒ぎ立てている。1羽は明らかに僕の家を標的にしていて、時々庭に植わった木に止まり、こちらを見やりながら葉っぱを食いちぎる。こいつも、僕を全く怖がっちゃいない。僕は自分を情けなく思う。カラスに勝てる気がしないのだ。簡単な話だ。僕は飛べない。地上をただただ移動する鈍臭い木偶の坊だ。
原因なんてない。生ゴミを放置しているわけでも、カラスに対して何かをしたわけでもないのだ。これはいじめのような、防ぎようのない事故みたいなもので、標的にされたが最後、飽きられるまで待つだけのみじめな終わりを願うだけなのだろう。
しばらく放っておくとギャァ、とカラスが叫び、ガサガサと音がした。
何事かと見に行くとカラスは網戸に足を引っ掛けて猫達に喧嘩を売っていた。
怒りが頂点に達した僕は無意識に窓ガラスを蹴った。少し驚いたカラスは急いで身を網戸から離そうと身をよじった。ギャァと言いながら網戸から剥がれ落ちたカラスは忌々しそうにこちらを睨んでいる気がした。ゾワッと背筋が寒くなった僕は出かける準備を始める。早くこの家から出なければ、そう思った。
忘れ物はしてはならない。ドアを開けたが最後、すぐには戻ってこれない、そんな気がした。
ぐっとドアを押す。電線で待ち構える2羽が僕を見下す。そう、明らかにこちらを見ているのだ。
庭にいた1羽は面倒臭そうにギャァと鳴くだけだ。
嫌な予感がする。黒い塊は視覚的にも聴覚的にも心をざらつかせるけど、存在そのものが心の輪郭だけを残して中味を食い荒らすようだった。
スッと外に出て左に曲がる。とにかくここを離れねば。その時だ。バサバサッと音がして、振り返る。例の1羽がこちらに向かって飛んでくるのだ。
走る。走る。僕は化け物に追われるような焦燥をもって足の筋肉の力を全開にさせる。
ついてくる。僕とカラスの速度は同じくらいだ。でもきっとカラスにとってこれは遊びで、本気を出されたら勝ち目がないのは明白だった。トンネルに入る寸前でカラスは僕を追うのをやめた。この住宅街からは出ない。そんな意志を感じる行動だった。僕は「街から追い出された」わけだ。
思えば僕の家は住宅街のど真ん中に近い。カラスはその場所で雄叫びをあげることで存在を誇示しようとしたのだろうか。
「この街はオレのもんだ」そう言いたかったのか。わからない。ただわかるのは素手の人間はカラスに勝てないということだ。
ギャァ。僕はこの声が大嫌いだ。
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