旅にでるのだ。
長い永い旅に出るつもりだった。
もう一生帰ってこないくらいの気持ちで、歩き出した。旅にでるのだ。夜風が金木犀の香りをのせてぼくの頬を撫でる。
――おかあさんなんか、おかあさんなんか、だいっきらいだ。
ぼくにとって初めての「旅」はこの、小さくも大きな家出だった。きっかけは些細なものだ。晩ごはんを食べながらドラえもんを見ていたぼくは、しずかちゃんに見惚れて白飯の茶碗をひっくり返してしまった。アッと思った時にはもう遅い。絨毯にでんぷんの塊がべとりとはりつく。
母激怒。ぼく号泣。のび太も、号泣。
バタンと家のドアが閉まり、ガチャリと鍵がかかる。無慈悲な音だ。「そこで立ってなさい!」なんて、それこそドラえもんの世界でしか聞かないと信じていたのにな。
当時6歳。世界なんて、狭いものだ。とりあえず目指したのは一年前まで通っていた保育園。しかしそんな時間に保育園が空いているわけもなく、そもそも徒歩だと大人の足でも一時間ほどかかる距離である。そんなことさえわからないほど、世界のことをわかっていなかった。
とうに陽が沈んだ空はオレンジのカケラをすべて奪われ、鈍色がかった紺に変わっていた。
近道だと断定して、入ったことのない路地に入る。そう、これは旅であり、冒険なのだ。ぼくは勇者であり、ご飯をひっくり返した悲劇のヒーローなのだ。
当然のように、道に迷う。RPGでは初めにもらえるはずの地図は手元になく、ヒントをくれる相棒のモンスターもいなかった。ぼくはただの家出少年であり、迷子だった。
その「旅」は唐突に終わりを告げる。知らない家の大きな庭に迷いこんだ半泣きのぼくは、保育園の方向を家主に尋ねようとインターフォンを鳴らした。
その家のおじさんは半泣きの「旅人」を見て尋ねた。
「ボク、どこからきたの?」
「あの、えっと、あのマンションから…」
親切なおじさんは軽トラックにぼくをのせて「ふりだし」に送り返した。
「礼はいらないよ。ちゃんと帰るんだぞ」そう言っておじさんは白い歯をむき出しにして笑った。
どんな顔をして家に帰ればいいかわからなかったぼくはエントランスでぼんやりと立ち尽くしていた。もういちど「旅」に出ようか、そう思って歩き出した矢先、友達のお母さんが走り寄ってきた。「りゅうくん、何してたの!」友人のお母様方を総動員してぼくを探していたらしい。
母に抱きしめられた。それはもう強く強く。さっきまで怒り散らしていた母が、泣く。旅は終わったのだ。
テレビではエムステのエンディングを知らせるテーマソングが流れている。絨毯にはまだコメが数粒、こびりついたままだった。
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